ふたなり聖女信仰が息衝く山間の農村

信じるということは、自分の幸福を外界に委ねることである。己の力だけではどうにもならない事象について、自らの外に対してその解決を望むと言うことが、信じることの本質に他ならない。
あなたは両親を、家族を、恋人を信じられるだろうか。友人を、先輩を、上司を、先生を信じられるだろうか。顔も名前も知らないインターネット上に存在する人物を信じられるだろうか。その実在すら危ぶまれるものを信じられるだろうか。人間はそこまで心の強い生き物ではない。せいぜい、存在に確証が持てる相手を信じることが精一杯だろう。だからこそ宗教には偶像が存在するし、出エジプト記における有名なモーセ十戒をしても、真に敬虔な信者以外の偶像崇拝を止めることは出来ない。
十字架、仏像、絵画、偶像崇拝の対象を上げればきりがないが、その殆どは「実体のない神を信じるという行為の難しさ」を示していると思う。土着宗教あるいは原始宗教における神とは自然物であったり動物であったり、畏怖を感じさせる実体であることが多いが、これもまた存在しない(と思われる)ものを信仰することの難しさであろうか。とかく、人間はそこまで強い生き物ではないのだ。

山間の農村における信仰は、もともと豊漁・豊穣に対する期待であった。その対象は自然であり、彼らは雨と太陽に感謝を捧げて日々を生きていた。そんな彼らに転機が訪れたのは、やはりキリスト教の大規模な布教であろう。彼らは、今まで存在すら知らなかった「神」というものを知ったのだ。神は恵みの雨を降らせ、燦々と照りつける太陽を齎し、彼らの安寧と幸福を司るものであると、そう紐付けられたことに不自然さはない。原始的な宗教が体系立てられた宗教の一部分として都合良く理解されたのだ。
しかし、農村には教会などがあるわけでもなく、女神像のような偶像崇拝の対象も存在しない。ならば、何に祈りを捧げればいい?彼らは「神」を知ったが故に、今までのように自然に感謝を捧げることの代替行為を失ったのだ。

そんな中で、農村に生まれた新たな命が両性具有、ふたなりの子であったことは、これはまさに神の与えた奇跡なのかもしれない。彼らにとって未知なる存在であるふたなりは、まさに「神=未知の存在」を体現したものであったがゆえに、彼らがふたなりを信仰の対象として祀りあげたことも自然な流れであったのだ。

突然変異的な存在であるふたなりも、農村という限定的且つ閉鎖的な空間内での生殖行為が続くのであれば、通常よりも高い確率で生まれてくることができた。以来、彼らは何十年かに一度生まれるふたなりを聖母として崇め、彼あるいは彼女こそが信じるべき神の姿であると、そう信じつづけることになった。

そして、この風習は今もなお続いている。彼らにとって世界とは即ち農村であり、外界がどうあれ、彼らの幸せは彼ら自身が見つけ、感じるものであるから、彼らが満足するまで続くのであろう。


ひっそりと佇む山間の山村で、今日もふたなり聖女は崇められ続けている。