姉の歯ブラシを噛んだ日

―――姉が結婚する。


その話は、以前から聞いていた。大学を卒業して就職を機に上京した姉が実家に姿を見せるのは年に2回、盆と年末年始だけだ。一昨年の盆に姉から彼氏の話を聞き、年末年始にはまだ続いているとも聞いていた。翌年の盆も、順調なようだった。そして、年末年始に彼氏を連れてきた。あれがいわゆる顔合わせだったのだろう。気さくな好青年だった。両親も大いに歓迎し、僕も歓迎した。実際、いい人だった。

今年の盆に、姉は「結婚する」と報告に来た。式は年明けの2月を予定しており、準備を進めていること。すでに半同棲状態だが、結婚したら引っ越して二人暮らしをするということ、しばらく仕事を辞めるつもりはないこと、等々、色々な話をしていた。姉の、幸せそうな表情が印象的だった。

そしてこの年末、姉は今年も実家に帰ってきた。受験を控えて勉強に励む僕の部屋にも顔を出し、「よっ!頑張ってる?あんまり根を詰めすぎて風邪とかひかないようにね?」と声を掛けに来た。幸いにしてそれほど難関校を狙っているわけでもない僕は、「大丈夫だよ。それよりお姉ちゃんこそ結婚式近いんでしょ。年末年始にお餅食べすぎて、ドレス着れないとかそんなことにならないようにしなよ。」などと冗談を飛ばして姉をからかった。姉は「だいじょーぶだって!1月に痩せればいいんだから!」と笑顔で返してきた。

一月三日。三箇日最終日。姉は、明日東京に戻る。次に顔を合わせるのは結婚式の時だろう。両親もそれを分かって、いつも以上に豪勢な食事と、お酒を用意していた。いつもならそこまで酔わない母まで、顔を赤らめていた。当然ながら未成年の僕はお酒を口にしなかった(正確に言うと姉からの「いいからいいから!ちょっとくらい!」に押されて多少は口にした)ため酔っては居ないが、父も、母も、姉も、23時頃にはもうぐっすり寝ているようだった。

24時、部屋でテレビを見ていた僕はそろそろ寝ようと思い洗面台へ向かった。見慣れた洗面台に、姉が帰省した時だけ置かれる真新しい歯ブラシ。ありふれた、いつもの光景だ。そう思っていた。


魔が差した、のだろうか。正直に言って、何を考えていたのか今でも思い出せない。ただ、自分の歯ブラシまで伸ばした手が止まり、一瞬の躊躇があってから、姉の歯ブラシに手を伸ばしたことはよく覚えている。そして、その歯ブラシを口に含み、そっと噛んだ。



甘いようで、少しほろ苦い味がした。


同じ歯磨き粉を使っているはずなのに。


おろしたての真新しい歯ブラシなのに。



姉の歯ブラシを噛んだ時、脳裏には姉の「もう、仕方ないなぁ……」という苦笑の表情が浮かんだ。そんな気がした。


今日は2月某日。
明日、姉が結婚する。



あの日噛んだ歯ブラシの味は、まだ、忘れられない。